前編では、葬儀の小規模化などにより死と接する機会が失われていることや、お墓を持たないという選択肢が増えている中で、想いを寄せる場所や対象の必要性についても話された。死は誰にでも起こるからこそ、個人だけが死を引き受けるのではなく「共同体における死生観」を現代にもつくれないだろうか。本妙院ご住職の早水文秀さん、小説家の朝吹真理子さん、東急株式会社から東浦亮典、そしてEND展キュレーターの塚田有那が意見を交えた。
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塚田:民俗学者の畑中章宏さんと、死者が帰ってくるというお盆の風習、とくに盆踊りなどの文化を現代に引き継げないかという話をよくするんですよね。それはまた、地域という共同体のなかで死を引き受けることでもあると思うんです。毎年夏に開催する盆踊りのなかで、近年亡くなった人へ想いを馳せる。もともと盆踊りがそうしたものであったとすれば、それは死が一家族や個人だけのものではなく、共同体のなかでゆるやかに共有し合えるものだったはずです。一方、現代は介護や死の問題を、一家族だけで引き受けている。そこにしんどさや歪みが生じていると思います。
東浦:ニュータウンのような元々の歴史文化がないところでも、同じ場所に集まって盆踊りをすることで、人々の地域での役割や関係性が見えて、それが子どもたちの原体験にもなり次世代へ継承することもできると思います。老いや介護、またはひきこもりなどについても死と同様に家族だけが請け負うことになってしまっている現代において、地域や社会で何かを提供できないか、東急も取り組んでいきたいテーマですね。
朝吹:秋田県西馬音内(にしもない)の盆踊りでは、「死者がいつ紛れてもいいように」 踊り手たちが全員黒い布で顔を隠すんですよね。 以前宮城県の瑞巌寺にお詣りに行ったとき、ちょうど灯籠会の催しがあって、 、明かりが灯籠の光だけで、 参道 を歩いているとき、ぼーっと足だけがみえていて、他がよく見えないので、 すれ違った人がふいに自分に思えたことがありました。信仰の場ならではの空間がそう感じさせたのかもしれませんが、生きている自分と死んでいる自分の境界の曖昧さを認めると、死を怖いと思う気持ちが少し薄くなるような気がします。
東浦:インドのガンジス川では、亡くなった子どもの遺体が流されている傍らで、沐浴をしている人々がいたりしますよね。生と死がとても近いものとして受け入れられていると感じます。
早水:私が初めてインドを訪れたのはもう30年ほど前ですが、ガンジス川は人生のすべてが見られる場所ですよね。人はいずれ死ぬということを改めて思い知らされ、いまも強く印象に残っています。
塚田:日本では、ガンジス川のように生と死が渾然一体とする場として、お盆という風習を設けていたのではないかと思います。近年ではハロウィンが大きな盛り上がりを見せていますが、本来はケルト民族による「死者が復活する祭り」であり、その象徴としてゾンビに仮装した子供たちにお菓子をあげるという儀式ですよね。
いま視聴者から「東京砂漠で暮らす都市生活者にとって、家や家族と死生観をどう捉えるのか、非常に関心があります」というコメントが来ていますが、みなさんは都市における死生観の形成について、どう考えられますか。
東浦:前編で朝吹さんが六本木には死のイメージがあると仰っていてびっくりしたのですが、それと似たような感覚で、いまは都市化されていても、小さな路地を歩いてみると、ふと死の雰囲気を感じられるところがあります。コンクリートで不自然に塗り固められているなかに何かを感じたり。注意深く見てみれば、まだ都市にも死の気配は残っていると思いますね。
塚田:これまで地域や公共性における死について話題に挙げていただきましたが、文化を入り口として死を考える場をEND展ではつくりたいと考えています。出展作のひとつ、dividual inc.(ドミニク・チェン+遠藤拓己)による《Lastwords / Typetrace(10分遺言)》では、書き手が書いたり、消したり、ためらったりといった推敲の軌跡が記録・再生されるシステムを使い、みなさんから集めた遺言を掲示します。
Photo: Keizo Kioku
朝吹:私が初めて「Typetrace」を観たのが舞城王太郎さんの小説が書かれるプロセスを再生していた作品でした。PCで打たれたテキストよりも、手書きの原稿のほうが臨場感が伝わるものだと思いがちですが、そこでは言葉が紡がれていく様子がありありと伝わってきてとても不思議でした。
東浦:いざ遺言を書こうと思うと躊躇してしまいがちですが、地震やパンデミックなど不確実性の高い時代下では、一度書いてみるのも良いと思います。
早水:人が生まれてから死ぬまで、すべてが平穏な時代はありえないと思います。感染症が広まったり、戦争や天災が起こったりと、世界は常に不安定なものです。しかし、文化文明が発達したいまでは、なかなか死が訪れる可能性を自分ごととして感じにくい。だから、いざ遺言を遺そうという気持ちにもなりにくいのだと思います。
塚田:だからこそ、死について考えるきっかけとして「10分遺言」にトライしてみてほしいですよね。お寺で「10分遺言」のワークショップを開いてみるなんてどうでしょうか。
早水:いまでは宗教界隈でもエンディングノートを推奨する動きがあります。死をどのように扱うかを考えるとき、日蓮が『妙法尼御前御返事』にて「先(まず)、臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と説いたように、まず誰にでも「臨終がある」という前提を理解した上で、どう生きるかを考えられる時間があると良いと思います。「10分遺言」のワークショップなんかはぜひやってみたいですね。
東浦:私が最近読んだビル・パーキンスの『DIE WITH ZERO』(2020、ダイヤモンド社)でも、自分の平均余命を推定して、そこからバックキャスティング的にお金の使い方、ひいてはどう生きるかを考えることを提唱しており、ひどく感銘を受けました。いまの早水さんのお話ともリンクする考えなのかなと思いましたね。
塚田:朝吹さん著書の『きことわ』(2011、新潮社)を読み返して、人の人生の記憶はどのように残り、また思い起こされるのかについて考えさせられました。
朝吹:『きことわ』が生まれたきっかけは、買い物メモに記していた「卵」の字から、背中合わせの二人の子どもが連想されたんです。 人の記憶に関して言うと、最近では1945年の山手空襲が気になって、聞き書きを読んだり、たまに聞き取りにおじゃましたりしているのですが、悲惨な内容が多い中、 時折すごく個人的で、とても小さなエピソードが読めるときがあるんです。
例えば「羽釜で米を炊いていたところに空襲がきて、燃えて炊き上がったご飯がすごくおいしかった」とか。 弓指寛治さんが 聞いた空襲のエピソードでは、 当時まだ小さい子どもだったひと が空襲についての思い出を教えてくれるときに、 「タイルのあった家だけ燃えなかったから、私も将来はタイルで家を建てようと思った」という未来のことを考えていたという話を聞きました。 もちろん悲惨な事実を書き留めることも大事なんだけれども、人が生きているときに感じては消えてしまう、 淡雪のようなものに出会ったときは、とても嬉しく感じます。
塚田:東日本大震災の被災地でも、被災者の間では「笑い」が生きる力になっていたという話をよく聞きます。おばあちゃんたちが、とても口に出せないような下ネタをゲラゲラと笑いながら話したりとか(笑)。そうした、なかなか表立っては記録されないことにも、実は大切なことがたくさん詰まっているように思いますね。たとえば、そうした他愛のない話を放出できるのが、三周忌など法事の宴会の席だったりするのかもしれないですよね。
早水:故人について話す機会があることが当人の供養にもなるし、みんなの心のなかで忘れずに生かしていくことにもつながるのではないかと思います。
東浦:そういうときに出る話題って、必ずしも過去の立派な話だけではないですよね(笑)。
早水:そのほうがリアリティを感じますよね。また、故人の普段のコミュニティや生活を家族はあまり知らなかったりもしますよね。すべて家族葬になってしまうと、お別れの場に来たくても来られなかった人たちが出てきてしまいます。
塚田:家族以外の人が介入すると、思いがけない気づきやかつて見られなかった側面を知ることが増えますよね。たとえば、まったく知らない人同士で、亡くなった家族や親しい人について語り合うワークショップなんかをしてみるのもいいかもしれませんね。そこで深い対話を促すには、何がポイントになるでしょうか。
朝吹:「良いこと」を聞き出そうとしないと思っていますが、ちゃんとそうできているかはわからないです。 話が脱線してしまっても良いと思うんです。また、そのときに聞いたことはそのときだけの本当で、時を経て移り変わるものだと思います。 そこが面白いですよね。
塚田:WEBサービス「Hiraql(ヒラクル)」でも「死ぬまでにやりたいこと」を何回でも書き直せるという機能があります。外向けではなく、内側の感情や記憶から想起される死生観、それが一番大事なのではと思いました。
朝吹:ここまでのお話を受けて、ペットロスが辛い理由がわかった気がします。動物は人間と違って家族しかその姿を知らないし、周囲の人となかなか話す機会もないんです。これからもお手製の猫の祭壇に光をとおす 習慣を続けたいと思いました。
早水:私は日頃から死に関わっている身ですが、生きている人がこれからどう死を迎えたいのかに対して向き合う機会が少ないと気付きました。死との向き合い方に対して、形式を重んじて受け継いでいる立場ではありますが、内面の部分で人々にどういう死生観が立ち上がっているのかなど、ご意見を聞けて良い機会でした。
東浦:我々東急もライフエンディングサポート事業を始めるにあたって、死を迎える直前の方々だけではなく、デジタルネイティブ世代にも自分らしく生きるためのバックキャスティングとして、何度もメモをリライトしながら考えてみてほしいですね。これからの不確実な時代を生きていく人々の習慣として死について思いを巡らせることがあると、生き方も変わってくると思います。
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